高崎達之助氏の事績
2026.01.10
・過日、友人と話していたら、「高崎達之助というのは大した人だったのですね」という言葉が出てきた。高崎達之助氏の名前は、戦後のLT貿易で中国との貿易を切り開いた人として記憶していたが、筆者はそれ以外の事績は知らなかった。
・早速この友人の知り合いが書かれた書物を送っていただき読んでみた(参考文献[1])。たしかにそこには、第二次大戦後、ソ連の占領下にあった、満州で邦人の保護にあたった高崎達之助氏の活躍が述べられていた。第二次大戦末期、ソ連が満州に侵攻し、日本側は関東軍と満鉄の関係者がさっさと逃げ出し、後に日本人の居留民が置き去りにされた話は、すでに半藤氏の著作で知っていたが、ソ連軍占領後の満州邦人の生活に関してはこの著作で初めて知ることになった。
・そこで高崎達之助氏に関して興味がわき、同氏の著作、「満州の終焉」を読んでみた。今は便利な時代で、国会図書館のディジタル書籍で読むことができる。以下はその感想である。
・まず高崎氏の略歴に関して触れておく。
*1885生まれ、1964年没。
*大阪に生まれ、農商務省水産講習所(現在の東京海洋大学:旧称東京水産大学)に進学。
*卒業後缶詰の製罐業に従事し1911年から17年まで滞米、帰国後1917年東洋製缶を設立。1937年に日中戦争がはじまると鉄の供給が滞り始めたため1939年満州に進出。1941年、満州重工業開発副総裁に就任(総裁:鮎川儀介)。1942年に総裁就任。
*日本の敗戦後、ソ連軍が満州に攻め込む。高崎は日本人会会長として子供や老人の保護に奔走(上のブログはこのことを記している)。
*1947年日本に帰国。その後電源開発総裁、経済審議庁長官などを務める。
・ここでの焦点は、ソ連軍侵攻後の満州における邦人の暮らしだ(以下参考文献[2]による)。
*日本敗退後の満州はまずソ連が占領し、ソ連軍が撤退後は八路軍、そして国民党軍の占領下におかれた。
*昭和20年8月13日、ソ連の侵攻直前に民間有力者が集まり(参考文献[2],p194)治安維持会を組織。
*8月24日、ソ連のコワリョフ大将と会見、邦人の食住の確保を陳情。ソ連軍の略奪が横行。
*8月28日、邦人保護のため日本人会を発足。難民救済のための資金を会長名義で借入(これがブログ[参考文献[1]で触れられている]、参考文献[2],p194)。
*9月22日。満州の現状を日本に知らせるため密使を日本に派遣(吉田茂外務大臣と鮎川儀介氏あて)。
*コワリョフ大将帰国後、経済参謀スラドフスキーと折衝。満州重工業の引き渡しを行う。
*同時に中国の国民党、中共軍とも接触を保つ(同上、p259)。
*11月中ソ工業公司の設立。
*昭和21年4月ソ連の撤退。中共軍の進出。軍紀良好。
*昭和21年5月国民党軍(国府軍)進出。同時に中共軍も進出
*昭和21年5月邦人引き上げ開始。一部の邦人は技術者として残存を要請される(約9,600名)。 *昭和21年12月邦人引き上げ完了。その後も専門家として残留を要請される。
*昭和22年国民党より日本戦時賠償問題で、日本出張を命ぜられる。その後満州は中共軍の支配下となり、これが結局高崎氏の帰国となった。
・これを読むと、高崎氏がソ連占領下で満州の邦人保護のため、どのように働いたかが、よくわかる。人間の真価は、厳しい状況に置かれたとき、どのように対応するかで決まってくる。その意味で、高崎氏の事績は戦後80年余が過ぎた今でも記憶にとどめられるべきだろう。
・日本も厳しい時代に入りつつある。その意味で、「満州の終焉」は文庫版等で復刻が強く望まれる。
(参考文献)
[1]橋都俊介、「家と人生・父母への想い」、2024
[2]高崎達之助、「満州の終焉」、1953
[3]半藤一利、「ソ連が満州に侵攻した夏」、文芸春秋、2002
