ドーリットル攻撃の教訓
2025.09.20
・ドーリットル攻撃とは、太平洋戦争の初期(1942年4月18日)に米空のホーネットから発信したB-25爆撃機16機が初めて日本本土を空襲した事件だ。
・東条首相の乗った飛行機(宇都宮と水戸の間を飛行中)がこの爆撃機と約20キロの距離ですれ違ったことは、日本側に大きな衝撃を与えた(参考文献[1]、p10)。
・また東京への空襲は、実害はそれほどなかったが、本土空襲を懸念していた山本五十六連合艦隊司令長官にミッドウェー攻撃を決断させ、これが日米海戦上の転機となった(参考文献[1]、p200)。こうしてみると、ドーリットル攻撃は、開戦以来押され気味だったアメリカの実にうまい反撃手段だったことがわかる。
・日本側も、こうした本土爆撃はある程度予想しており、哨戒体制を引いていた。しかしその体制には不備が多かった。陸上の監視所(岩間監視所)から中央への連絡は、電話局の混雑で遅れた。また戦闘機による迎撃態勢も不完全で、高高度の来襲を想定していたため、300メートルという低高度からの攻撃には対応できなかった。迎撃戦闘機(97式)は速度が遅く爆撃機を追撃できなかった(同、p51)。
・こうしてドーリットル攻撃隊は一機も撃墜されずに、「日本側にショックを与える」という所期の目的を達成した。なお日本の大本営は「9機撃墜」と報道したが、実際にはゼロで「皇軍は空気(9機のひねり)を撃墜した」と揶揄された。
・古い話を蒸し返すのは、これが日本政府の「想定しない緊急事態への対応不備」の典型だからだ。似た例では、2011年の東日本大震災とそれに伴って生じた福島第一原発メルトダウンへの対応不備が記憶に新しい(参考文献[2])。
・特に気になったのは官僚の対応で、「技術のことをわかっているのか」という菅首相の問いに対して、寺坂信昭原子力保安院長(当時)の迷発言「私は経済学部ですけど」(参考文献[2]、p218)は(失礼ながら)歴史に残るだろう。安全を担保するはずの役所のトップが、それにふさわしい能力も持たず、しかも事故発生時には、責任逃れに徹したわけだ。
・これから日本は、内外ともに難しい時代を迎える。これからも想定外のトラブルは生じるだろう。その時に政治家だけでなく、官僚が責任を持って、臨機応変にうまく切り抜けていってほしいものだ。
(参考文献)
[1]柴田武彦、原勝洋、「ドーリットル空襲秘録」、PHP、2016
[2]朝日新聞特別報道部、「プロメテウスの罠」、Gakken、2012