長岡半太郎と八木秀次の業績
2025.07.25
・長岡半太郎(1865-1950)は物理学者、東大で教え、阪大の総長も務める。いい意味での学会ボスだ。八木秀次(1886-1976)は八木・宇田アンテナの発明者、東北大学や阪大で教える。八木アンテナは、ケーブルテレビが普及した今、あまり見かけなくなったが、民家の屋根に林立していたテレビアンテナのことだ。太平洋戦争後、八木は八木アンテナという会社を創業し、テレビ時代を見据えて八木アンテナの普及にまい進した。
・八木秀次は東北大学時代に金属学で有名な本多光太郎の知己を受け、彼が八木を長岡半太郎に紹介する。長岡と八木は新しい学校(阪大)の創設に取り組む。以下その話。
・東北大学時代の八木は電気通信の将来性に着目し研究を進める。これを資金面で支えたのが地元の実業家斎藤善右衛門による斎藤報恩会で、たとえば1925年の八木等に対する資金援助は4万円に達した。その成果が八木・宇田アンテナや岡部金次郎のマグネトロン発明などにつながる(参考文献[2],p20)。ちなみに前回のブログで取り上げた松前重義は1925年に東北大学電気工学科を卒業している。
・八木の教育哲学は明快で、「不確実な事態、未来に対応できる対応能力、それを磨く教養」の重要性を繰り返し説いた(同、p44)。
・1931年阪大が開学し、八木は長岡半太郎に招かれ、物理学科の主任となる(同、p50)。その教室の顔ぶれがすごい。
*教授:八木秀次
*助教授:岡部金次郎
*講師:湯川秀樹
*講師:伏見康治
*助手:坂田昌一
・理系でない人は知らないかもしれないが、伏見康治は量子力学の専門家、坂田昌一は湯川、朝永振一郎とともに日本の量子力学の先駆者だ。つまり長岡半太郎は学閥などにとらわれず、最も優秀な若者を阪大に集め、それが戦後のノーベル賞受賞につながったとみることができる。
・それを資金面で支えたのが谷口工業奨励会だった(同、p56)。面白い話がある。伏見康治が阪大助手に赴任して、月給が東大時代より下がったので、八木に文句を言いに行ったら、即座に年俸800円を1000円に引き上げてくれたという。阪大は優秀な人材の確保に資金面でも十分な手当てをしていたのである。
・こうしてみると現在の日本学会の低迷は、長岡や八木のようなビジョンを持ち、学閥にとらわれずに人材登用し、かつそれを支える豊富な民間資金の不在が原因ではないか。人を育てるには時間がかかる。文科省や財務省のご機嫌をうかがうだけでなく、学会は人材発掘に自ら汗を流すべきだろう。この点では伊予原新、「宙わたる教室」の感性が役に立つと思うが、どうだろうか。
(参考)
[1]長岡半太郎、日本図書センター、1999
[2]沢井実、「八木秀次」、吉川弘文館、2013
[3]伊予原新、「宙わたる教室」、文芸春秋、2023