松前重義著「二等兵記」を読む
2025.07.19
・松前重義(1901-1991)は東海大学の創立者として名を残している。しかし彼の第二次大戦中の体験は今の若い人にももっと知られてよい。
・彼は電気技術者で、東北帝国大学電気工学科を卒業後、逓信省に技官として入省。無装荷ケーブルの発明などで名をあげる。1941年逓信省工務局長に就任。日米開戦後日本の生産力が米国に遠く及ばないことを知り各方面に報告。これが当時の東条首相の怒りを買い、勅任官でありながら二等兵として招集された(1944年)。
・以下は同氏の著作「二等兵記」に従う。
*日米生産力の比は、彼の10以上に対し、我は1以下である(参考文献[1]、p47)。
*普通鋼鋼材においては、昭和20年度700万トンが必要とされるが、現状の580万トンも疑問視される(同、p47)。
*東条内閣の発表する軍需生産の計画はでたらめな内閣宣伝の欺瞞に満ちたものである(同、p49)。
*ある日高松宮殿下からお呼び出しがあった。・・・東条内閣を以てしては国家の前途は滅亡のほかはないと、声涙ともに降る思い出お話し申しあげた。
*東条首相及びその周辺である星野書記長、赤松秘書官等は、私を何とか片づけたいと思っていた(同、p61)。
*昭和19年中旬、徴兵年齢の延長が企画され、・・・満45歳までは兵士として招集し得るようになった(同、p72)。
*同年二等兵として45歳で招集される(同、p75)。
・以下は参考文献[1]をお読みいただきたいが、沈没必死の輸送船で南方に送られるものの、九死に一生を得て生還した。
・この本で松前氏が書いていることだが、もしも東条政権がサイパン陥落後も続いていたら、終戦時に北海道はロシアに占領され、ドイツの二の舞(東西ドイツの分割)になったのではないかと言う。その意味で岡田啓介元首相や高木惣吉海軍少将が命を懸けて東条内閣打倒に踏み切ったのは後世の我々にとっては実に幸運だったといえる(参考文献[2]参照)。
・危機に際して、役人として、国のために本当に必要なことを、命を懸けても主張する。逓信官僚松前重義の行動はその一例に過ぎないかもしれない。今また日本は難しい時代に入りつつある。政治や官界の要路にある方々には、松前氏のような覚悟はあるだろうか。
(参考)
[1]松前重義、「二等兵記」、東海大学出版会、1968
[2]吉松安弘、「東条英機暗殺の夏」、新潮文庫、1989