有馬正文提督のこと
2025.05.31
・いつも気になっているのだが、「なぜ日本は無謀ともいえる太平洋戦争に突っ走ったか」が頭を離れない。この観点からいろいろな文献を拾い読みしている。その中でいくつかのエピソードに出会う。
・今回はその一つ、有馬正文提督を取り上げる。ウィキペディアによれば、彼の経歴は次の通り。
*海軍中将、1895年生まれ1944年没。海軍兵学校卒(43期)。終戦に功のあった高木惣吉と海兵で同期。
*1944年第26航空戦隊司令官(フィリピン・ミンダナオ島)。
*1944年10月15日、(特攻論議を前にして)自ら体当たり攻撃に挑み、戦死。
・特攻に関しては、後世の人間が論じるにはあまりに重すぎる。しかし特攻論議が始まり、その推進を声高に叫んだ人の中には、後世まで生き残った人もいる。これを考えれば、有馬提督の行為(若い人を死なせるならまず自ら範をとる)は将として一つの規範だ。
・有馬氏のこの行動に関しては、作家菊村到の綿密なドキュメントがある(参考文献[1])。ぜひお読みいただきたい。
・それを読みながら、有馬提督がなぜ自ら特攻に赴いたのかを考えていた。その疑問がやや解けたのは、菊村氏の本のあとがきの一節を読んでからだ。そこには彼(菊村氏)が本を出してから一通の手紙を受け取ったことが述べられている。その内容は、有馬提督の子息だった医者の有馬正高鳥取大学教授に関してのものだ。手紙の筆者Sさんの長男は難病にかかっていたが、その権威が有馬教授であることを知り、伝手もないのに、空港で教授をつかまえ、息子の病状を訴えたそうだ。すると有馬教授は本来の用件を後回しにして、Sさんの自宅に立ち寄り患者を診てくれたそうだ。そのあとも出張のたびにSさんの家に立ちより息子の病状を見てくれた。そのおかげで息子は回復し大学に通えるまでになったという。ここには有馬家に通じる一種のやさしさを見ることができる。
・有馬家は鹿児島の出身だ。有馬提督の特攻出撃は同県の偉人西郷隆盛のことを思いださせる。西郷は鹿児島士族の不満を抑えるため西南の役にあえて乗り出し、そして城山で戦死した。西郷の頭脳をもってすれば、これはまさに無益な戦いだが、かれは同時に時代に乗り遅れた士族の悲しみも理解することができたのだろう。
・有馬提督も特攻の無意味さをよくわかっていたに相違ない。それでも指揮官としてそれを部下に命じることは、軍人としてひとつの義務になったろう。だとすればまず自分の身をもってそれを体験しなければ、とても部下に対する義理が立たない。そこに鹿児島の先人西郷と同じ感覚を見出すことができる。勇者ほど、心の底に優しさをひめ、それに基づいて行動するものだ。
(参考)
[1]菊村到、「提督 有馬正文」、光人社、1982
[2]森史郎、「特攻とは何か」、文芸春秋、2006
[3]森史郎、「敷島隊の五人」、潮書房光人社、2016