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経済学における論理の”証明”

 経済学における論理の”証明”

   2024.11.23

・カル・ニューポートの「疑似生産性」を読んでいたら、サイモン・シンによる「フェルマーの最終定理」の話が出てきた。あまりに面白いので、元の本を読んでみた。幸いに邦訳があったので、楽に読めた。

 

・その中の一節に、”科学的証明”と”数学的証明”の違いが説明してある(参考文献[1]、p57)。

 

 *(数学的証明)は公理から出発する。そこから一歩一歩論理的な議論を積み重ねていって結論にたどり着く。こうして得られた結論が定理である。

 

 *(科学的証明)科学においては、ある自然現象を説明するために仮説が立てられる。その現象を観察した結果が仮説とうまく合っていれば、その仮説にとってプラスの証拠となる。さらにその仮説は・・・他の現象を予測しなければならない。この予測を試すために実験が行われる。・・・集められた証拠が圧倒的になったときに、その仮説は科学理論として受け入れられる。しかし科学理論を数学理論と同じレベルで完全に証明することはできない。

 

・この議論を読んでいて思い出したのは、最近の経済学論文の書き方のスタイルだ。これは上でいう数学的証明のロジックと似通っている。たとえばまず仮定が明示され、それに基づいて定理が証明されたりする。

 

・今の経済学者にとって、このやり方は当たり前のことかもしれないが、それには歴史的背景があることを忘れてはならない。

 

  *1918年に数学者ヒルベルトは公理主義を主張した。公理主義は上の言葉を使えば”数学的証明”のことだ。しかしこの公理主義はゲーデルの不完全定理によって、そのままの形では成り立たないことが証明された(1929年)。しかしヒルベルトの”思想”(公理主義)は広く社会科学に影響を及ぼした。

 

  *その一つがウィーン派(フォン・ノイマン等)であり、さらに1930年代にフランスの数学界にブルバキ派が生まれ、公理主義による数学の体系化を試みた。これに影響を受けたのが数理経済学者デブルーであり、彼はアローとの共著で一般均衡解の存在を証明した。そのインパクトは大きく、以降経済学の論理展開は”数学的証明”方式となった。

 

・しかし現実の経済を分析するやり方は、本来”科学的証明”方式が適している。この主張は細々ながら英国で生き残った。カルドアやロビンソンの名前が思い出される。

 

・日本の経済学はアメリカからの輸入学問だから、”数学的証明”方式が当たり前だと思っている。昨今の経済学がちっとも現実の説明に役立たない(と筆者は思うが)原因の一つは、この辺にありそうだ。

 

(参考)

[1]S.シン、「フェルマーの最終定理」、新潮文庫、2024

[2]Cal Newport,Slow Productivity,Penguin,202

[3]Nicholas Kaldor,Economics without Equilibrium,M.E.Shapre,1985

[4]Solow R., ”Comments”, Journal of Economic Perspectives, Vol.22,No.1,Winter 2008