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「海軍乙事件」とその後

「海軍乙事件」とその後

  2024.05.19

・海軍乙事件とは、1944年3月31日に連合艦隊司令長官古賀峯一海軍大将が搭乗機の遭難により行方不明(その後殉職扱い)となり、随伴した参謀長福留繁中将が搭乗機不時着によりフィリピンゲリラの捕虜となった事件のことである。

 

・ちなみに海軍甲事件とは、山本五十六元帥のソロモン島上空での戦死(1943年4月18日)を指す。

 

・なぜこの事件に注目したかというと、戸高一成氏の論述、「捕虜になった上に次期作戦の機密書類が米軍にわたった可能性もあるのに、帰還した福留参謀長に対する責任追及は一切行われなかった」が目に留まったからだ(文献[2],p66)。なお福留繁中将は海軍大学を首席で卒業したエリートで軍令部勤務が長い。

 

・小説家の吉村昭氏はこの事件の経過を淡々と述べている(文献[1])。それを読むと驚くべきことが記してある。

 

 *福留参謀長等の乗った2式大艇はフィリピン近海に不時着し、福留中将と山本中佐は現地人のカヌーに助けられる。彼らは作戦計画書と暗号関係書類を入れた防水書類ケースを携帯していたが、水中投棄しなかった。

 

 *ゲリラを指揮していた米軍人クッシング中佐は、彼らを確保した。日本陸軍の大西大隊長は、彼と交渉し、福留参謀長一行を無事救出した。

 

 *「生きて虜囚の辱めを受けず」(東条英機陸軍大臣による戦陣訓)と教育する立場の人間が追及されずに、後の経歴にも傷がつかなかった(戦後は水交会理事長を務める)。

 

 *関係者がそれをどうつじつま合わせをしたかが、なかなか面白い(文献[1]、p124)。『福留参謀長等は現地の土民に捕まったので、敵(筆者注:米軍)の捕虜になったわけではない(本当は米軍に捕まった)。したがって戦陣訓には矛盾しない。』というのだ。

 

 *しかしこの事件にはとんでもない後日譚がある。彼らが保持していた作戦計画の入った防水ケースは、ゲリラの手でセブ島南部に送られ、そこから米軍潜水艦によってブリスベーンにある米陸軍情報部に送られた(p130)。これがレイテ湾海戦の日本海軍敗戦の大きな原因になったといわれている(「連合国海軍は・・・日本軍の戦略構想の大要を知り尽くして戦場に臨んだ)。

 

・福留繁中将は、この事件後栄転し、第二航空艦隊司令長官となった。そこで彼は神風特別攻撃隊の若者たちを積極的に送り出した。この件は別項で扱うことにする。

 

・以上を見てみると、福留繁中将に対する海軍の扱いは確かにおかしい。兵隊には死ねと言っておいて、偉い人は、いろいろ理屈をつけて生き残るという仕組みだからだ。ちなみに米軍はその点はっきりしている。パールハーバー当時の太平洋艦隊司令長官キンメル大将は、司令長官の座を即座に解任され、2階級降格され少将となった。

 

・80年も昔の福留事件が気になるのは、現代に通じるものがあるからだ。それは赤木事件(森友学園の国有地払い下げをめぐる財務省の公文書改ざん事件で財務省職員の赤木俊夫氏が自死した事件、2018年3月)を思い起こすからだ。そういっては何だが、日本のエリートとは、「国民のために働く」という意識を持たず、むしろ仲間内で助け合い、それ以外の人たちを見下しているような感じがする。赤木さんは生前、「私の雇い主は日本国民なのです」と言っていたそうだ(文献[4]、p259)。願わくはエリートたちにもこうした意識を持ってほしいものだ。

 

(参考)

[1]吉村昭、「海軍乙事件」、文芸春秋、2007

[2]半藤一利等、「あの戦争になぜ負けたのか」、文芸春秋、2006

[3]C.W.ニミッツ、E.B.ポーター、「ニミッツの太平洋海戦史」、実松譲、富永謙吾訳、恒文社、1962

[4]相澤冬樹、「メディアの闇」、文芸春秋、2021