· 

児玉源太郎にみるリーダーシップ

児玉源太郎にみるリーダーシップ

  2023.02.18

・昨今の日本指導者のリーダシップ欠如を見ると、つい児玉源太郎(1852-1906)のことを思い出してしまう。

 

・児玉は日露戦争(1904-1905)時の陸軍参謀次長(参謀総長は大山巌)として,日本を勝利に導いた立役者だ。その人柄は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」にうまく描かれている。以下は児玉が渋沢栄一に開戦に関する資金手当てを頼みに行く件(クダリ)だ(司馬、p161)。

 

 「渋沢栄一の事務所の受付に、白い詰襟の面会人が現れた。

  『たのむ。渋沢サンはいるかね』・・・せいぜい小学校の分校主任と言ったような男だった。

  受付の若い男は警戒した。日本財界の大御所といわれている渋沢栄一をたずねてくるような種族ではとうていない。

  『コダマじゃよ』

  『名刺をお持ちでいらっしゃいましょうか』

  『アア、名刺か』

  あわて者らし胸のあたりを探っていたが、わすれていたらしく、まあええ、コダマと伝えてくればわかる、といった。

  

 いかにもその人柄が浮き出ている。

 

・最近、新史料「児玉源太郎関係文書」が公開され、それに基づいて長南政義氏が児玉の評伝を書いた(2019年)。本稿は基本的にそれに従う。長南氏は児玉のことを「平時のあくなき改革者、戦時の卓越した戦争・作戦指導者」と記している。ちなみに平時のあくなき改革者とは、児玉が台湾総督(1998ー1906)として抜群の経営手腕を発揮したことを指す。

 

・この本を読んで興味をひかれたのは次の2点だ。

 

・第一は日露戦争の始め方と終わり方を最初から念頭に置いていたことだ。児玉は初戦で大勝利を収めない限り、欧米における軍費調達はうまくいかないことを認識していた。そこで彼は初戦にあたる「鴨緑江の戦いに・・・敵に対し約2.6倍の兵力と約3倍の火砲を投入すると同時に、・・・ 野戦重砲連隊・・・を投入した」(長南、p252)。

 

・第二は有名な203高地をめぐる戦いだ。乃木将軍率いる第3軍は、旅順要塞を攻めあぐねていた。そこに児玉が登場し、乃木の指揮権を一時的に譲り受け、第3軍の反対を押し切り23サンチ榴弾砲15門を東北溝から太平溝、9サンチ臼砲12門を孫家溝から太平溝南方に移動し、これを使って203高地制圧を実現した。こういってもピンとこないかもしれないが、長南氏の本の図(p295)を見ると、その戦略的意義がよくわかる。これによって旅順は陥落し、東郷平八郎率いる連合艦隊はバルチック艦隊を十分な余裕をもって迎えることができた。

 

・児玉自身は、日露戦争の終結直後に病死してしまうが、彼がいなかったら、日露戦争の行方はどうなったかわからない。

 

・最初の司馬遼太郎本に戻るが、児玉は、それでいて、偉ぶることなく、自分が必要とされるポジションを黙々とこなした。たとえば日本陸軍の知恵袋と言われた参謀本部次長の田村イ与造が開戦前に急死すると、児玉は内務大臣の職を離れ参謀本部次長に就任した。今の時代でいえば、専務が企画室次長に降格するようなものだ。

 

・翻って現代を見れば、残念ながら、児玉のように、大局観を持ち、しかも実務にも通じ、かつ組織運営に長けた人物をあまりみない。昨今の日本の長期低落も、こうした”よきリーダー”不在が一つの原因かもしれない。

  

(参考)

・司馬遼太郎、「坂の上の雲」第3巻、文春文庫、2004

・長南政義、「児玉源太郎」、作品社、2019