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オリンピック契約の片務性

オリンピック契約の片務性

 2021.06.05

・最初に断っておくが、筆者は法律の専門家ではない。今回のテーマは法律がらみだ。気を付けて書いているつもりだが、万一誤りがあれば、筆者のせいである。その点を留意してお読みいただきたい。

 

 ・通常の商契約では双務性が成り立つ。契約締結によって、契約を結ぶ両者に債務(責任)が生じるからだ。これに対して片方の契約者だけが債務を負うものを片務契約という。贈与などがそれにあたるようだ。

 

・最近オリンピック開催をめぐって、コロナ禍でオリンピック開催を中止できないかという議論が盛り上がっている。首都圏に住む筆者もこれに賛成だ。そこでオリンピック開催に関する契約内容をちょっと調べてみた。

 

・幸いにして、契約本文がウェブ上に公開されている。英語が正文だが、東京都オリンピック・パラリンピック準備局がその日本語訳を公開している。以下の議論は日本語訳に基づいている。

 

・まず契約当事者だ。開催契約は、IOC(国際オリンピック委員会)と東京都(開催都市)ならびにNOC(日本オリンピック員会)との間に結ばれている。したがって日本政府は、契約の当事者ではない。ただし開催都市とNOCは、政府が行ったすべてのコミットメントの遵守・実行を保証することになっている(Ⅰ.3)。

 

・今問題になっている契約解除に関する条項はXIにある。そこでは”IOCが以下のいずれかに該当する場合、・・・開催都市における本大会を中止する権利を有する”と書いてある。いずれかに該当する場合としては、”戦争状態、内乱、・・・IOCがその単独の裁量で、本大会参加者の安全が理由の如何を問わず深刻に脅かされると信じるに足る合理的な根拠がある場合”(XI.66)などと書いてある。つまり開催中止を決めるのはIOCで開催国ではない。

 

・こうしてみてくると、菅首相が国会で「主催者はIOC、IPC(国際パラリンピック委員会)、東京都、組織委員会だ」と答弁するのは、わからなくはない。政府は主催者ではなく、またこの契約では、IOCがすべての決定権限を有することになっているからだ。

 

・しかしこの首相答弁は、国民の安全を守るべき一国の責任者としては、物足りない。かりに今回のオリンピック開催をきっかけにコロナ変種の伝染が国内で拡大し、多くの国民の健康を脅かしたらどうなるか。その責任を日本政府はとれるだろうか。そこでこの片務契約の存在を前提に、政府がどのような手を打てるかを愚考してみた(これは本来経験豊かな国際弁護士に相談すべきことだ)。

 

・まず契約の当事者がIOCと東京都ならびにNOCであることはたしかだ。しかし日本政府はオリンピック開催の実現を担保している。したがって当事者の一部と考えられる。したがって訴訟の当事者になりえる(?)。日本政府がコロナショックによる非常事態を理由として、オリンピック返上を国際司法の場に訴えたらどうなるだろうか。場所としてはスポーツ仲裁裁判所(ローザンヌ、Court of Arbitration for Sport)、もしくは国際司法裁判所(International Court of Justice)が考えられる。契約の87項では、スポーツ仲裁裁判所がこの任務を負うとなっているが、この機関は1994年にIOCから独立したもので、中立性にやや疑問がある。

 

・この場合、IOCに対して開催返上に伴う損失を補う賠償金が議論になる。しかしこのまま開催を強行したときの国民の健康被害を考えれば、賠償金の額と国民の被害額のどちらが大きいかは何とも言えない。

 

・かりに日本政府がこうした裁判を起こせば、これは日本のみならず、今後オリンピックを開催する外国の都市にもプラスになる。オックスフォード大学のフリーベルグ教授らがその論文で明らかにしたように、オリンピック契約は、片務的であり、開催都市に不当な責任を負わせているからだ。

 

・フリーベルグ教授らは1960年から2016年に至るオリンピックゲームの開催に要した費用データを集め、それに統計的分析を加えることで開催国の投資を分析した。その結果は極めて興味深い。

 

 *オリンピック開催の初期費用見積もりに比べた、実際の費用の上昇率は平均して172%となる。つまり当初見積もりより倍近い費用が、開催国にかかってくる(インフレを引いた実質額)。つまりオリンピック開催は、大幅なコストアップというリスクを開催国が引き受けることになる。このアップ率は他の大規模プロジェクト(道路建設、ダム建設など)に比べてはるかに高い。しかもこれはべき乗則に従うため、平均や分散の予測が基本的に不可能だ。

 

 *なぜこのようなことが生じるかは、以下の理由による。

  1)一端開催を引き受けると、それをキャンセルすることは極めて難しい。

  2)開催日程が決まっているため、期日変更によるコスト削減が難しい。

  3)IOCはこうしたコストアップを開催国に押し付け、自らは何の責任も持たない。

  4)各競技施設の仕様などが詳しく事前に決められており、コスト削減が難しい。

  5)開催の決定から実施に至るまで7年程度あるため、その間さまざまなブラックスワン現象が生じるが、そのリスクを想定できない。

  6)毎回開催国が変わるため、開催国は十分な経験なしにこうしたビッグプロジェクトに取り組まざるをえない。

 

・フリーベルグ教授の改善案は以下の通り。

 *IOCはこうした財務上のリスクの存在を認めるべき。そして十分な予備費用の計上を開催国に行わせる(現時点の数字は10%以下でとても足りない)。

 

 *IOCはこうしたコストリスクの一部を負担すべき。

 

・これは現代投資理論でいえば、リアルオプションを応用すべき分野だ。リアルオプションとは、不確実性が高い状況で、固定した投資戦略(ここでいえばオリンピック開催)に長期的に縛り付けられないための投資手法だ。おそらく日本のオリンピック当事者や政府の役人はこうしたことは念頭になかったのだろう。

 

・日本が今回の事態を利用して、IOCの不当性を世界に訴えれば、それは今後のオリンピック開催にとってプラスになるだろう。すでに現代オリンピックは、クーベルタン男爵の当初の理想とはかけ離れたところにある。

 

(参考)

・英文の契約書

2020games.metro.tokyo.lg.jp/hostcitycontract-EN.pdf

・朝日新聞、「五輪開催、首相17回同じ答弁 国会騒然でも変えず」、2021.05.21

・Bent Flybjerg,Alexander Budzier and Daniel Lunn,"Regression to the tail:Why the Olympics blow up",Economy and Space,Vol.53(2) 232-260,2021

・当ブログ、「オリンピックの経済学」2021.05.16