原敬にみる政治家としての資質
2020.02.23
・最近選挙に行くたびに思うのだが、投票したい候補者がいない。筆者は本来やや保守的なリベラルだが、ろくな候補者が居ないため、やむなく一票を投じるのが革新系ではあまりに情けない。
・それにつけても思うのは、大正時代末期に総理大臣を務めた原敬(1856-1921)のことだ。彼は岩手県盛岡の出身で、陸奥宗光や伊藤博文に認められ、外交官や新聞社経営を経て、政治家となった。生涯爵位を辞退したために、平民宰相とも呼ばれる(伊藤本、下巻,p396)。
・原敬と筆者の曾祖父とは若干の関係があるが、ここではそれをさておく。政治家としての原敬が貫いた主張は、公利と国際協調である。公利とは、公共の利益のことであり、政治家が目指すべきは、自己の利益ではなく公利の実現であるとする(伊藤本、上p78)。彼はこうした信念に基づいてイギリス風の政党内閣と立憲君主制の確立に邁進した。
・原敬は、政治家として、したたかに権力の階段を上っていくが、公利と国際協調の2本柱だけは曲げたことがない。そこに彼の政治的強さが見てとれる。彼がなぜこのような考えに至ったかは伊藤本に詳しいが、筆者の見るところ、第一に青年期にフランス人宣教師からエバラールからキリスト教とフランス語を学んだこと、第二に中江兆民の私塾に入り、ヴォルテール、モンテスキュー、ルソーなどの啓蒙思想を学んだことが大きかったろう。
・原敬のこうした姿勢は、対外関係でもはっきりしており、「日清戦争に勝っても、清国・朝鮮国等を見下したり、単に植民地化の対象として扱ったりする姿勢がない」(伊藤本、上、p306)。また対軍関係でも、田中義一参謀次長と意思疎通を高め、内閣主導でシベリア撤兵を実現し軍に対する政治主導を確立した(「田中は『統帥権』にも関わる人事権の運用を巡って・・・政党内閣の実力ある首相原に恭順の姿勢を示した」、伊藤本下,p300)。また後で触れる対支21カ条要求にも批判的だった(伊藤本、下p232、奈良岡本p172,p281)。
・しかし原は1921年、東京駅で暗殺されてしまう。また彼の盟友だった高橋是清も後に暗殺されてしまう。
・原と対比的なのが加藤高明(1860-1926)だ。彼は大隈内閣のときに対支21カ条要求を強行したことで知られる。彼はイギリス公使を務めたほどの練達の外交官であったにもかかわらず、対支交渉は拙劣を極め、対支21カ条要求の秘密条項(第5号)の存在を同盟国である英国にも伝えていなかった(奈良岡本、p214)。交渉は結局泥沼に陥り、日本は中国に最後通牒を出すことで(軍事力による脅し)決着を図った。これによって中国の対日批判は一挙に沸騰した。
・おそらく加藤の迷走は、総理になりたいがための迷いだろう(「加藤は国内政治の面でも意欲を持っていたため、外交指導者としての彼の行動はしばしば迷走した・・・自らの外交構想を貫くよりも政治的立場を優先する」、奈良岡本、p307)。こうして彼はめでたく首相の座を射止めるが(1924-1926)、ほどなく病没する。
・原と加藤は共に大正時代の日本政界を駆け上ってきた政治家だ。両者を分けるのは、原が公利や対外協調という政治的基本理念を、権力の階段を上りながらも、捨てなかったのに対し、加藤は偉くなるために、こうした理念を捨て去ったということではないか。
・今の政治家は、原タイプだろうかそれとも加藤タイプだろうか。筆者のみるところ、残念ながら、後者の色合いが強い。日本に政治的危機があるとすれば、まさにこの点だろう。
(参考)
・伊藤之雄、「原敬」、上下、講談社選書、2014
・奈良岡聡智、「対華21カ条要求とは何だったのか」、名古屋大学出版会、2015