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二人の山本五十六

二人の山本五十六

 第二次大戦時の海軍提督山本五十六の名前を知らない人はいない。とくに自身も海軍経験のある阿川弘之氏の山本伝記は広く読まれたと思う。

 

 筆者もそれを読んで、山本提督は、航空の将来を見通し、かつ米英との協調路線を図ることに苦心した名将であるというイメージを持っていた。

 

 最近、中路氏の「ロンドン狂瀾」を読んで、このイメージを若干修正する必要があるように思えた。阿川本も中路本も、ともに小説だから、事実関係を厳密に追っているわけではない。それを割り引いても、この違いは興味深い。

 

 舞台は、ロンドン海軍軍縮会議だ(1930年)。この会議に山本は次席随員として参加している。これはワシントン軍縮会議(1922年)の続きで、「悲惨な第一次大戦の反省をもとに、国際問題を武力ではなく、話し合いで解決しようという」世界的潮流の現れだった(中路本、p114)。

 

 ちなみにこの時代は、関東大震災(1923)、世界恐慌(1929)などが起こっている。つまり日本にとって財政的に厳しい状況に置かれ、国家財政に占める軍事費の割合を低下することが、当時の課題だった。

 

 この軍縮会議においては、ワシントン会議で実現できなかった対米英7割保有(トン数)を補助艦で達成することが日本海軍の要請だった。山本はこれに忠実にしたがい、この比率を下回る妥協案に強硬に反対したが、結局対米英比率0.6975で妥結をみる。

 

 この会議での山本の強硬な姿勢が、その後の海軍内での出世にも役立ったともいわれる。そして1934年のロンドン会議予備交渉で山本は海軍側首席代表を務めた。結局、日本はこの軍縮条約から脱退し(1936年)、ここに「海軍の休日」(naval holiday、互いに建艦競争を止めることで、軍事費を節約する)は終わりを告げた。

 

 この間の状況を阿川本は、「山本としては、・・・何とか三国間(注:日米英)の妥協点を見いだすことに努めるよりほかはなかった」(p74)と山本に同情的である。

 

 おそらく阿川本と中路本の違いは、入手ソースの多寡と違いにあるだろう。阿川本が、日本側の関係者から主として情報を得ているのに対し、中路本は、著作時点が阿川本の40年後であることもあり、外国史料も十分に取り入れた結果だと思われる。いずれにせよ、このように、一人の人物に限っても、いろいろな解釈があることに、小説を読む醍醐味がある。

 

 この二つの本を読んで、もう一つ気になったのは、軍縮会議で、日本側が要求した対米英7割の主張の根拠だ。条約反対派の加藤寛治軍令部長の発言「こんな案(注:7割を切る)では、全く兵力が足らず、軍令部長として国防に責任を持つことはできません」(中路本、p259)というのが当時の海軍の主張だろう。その根拠らしいものが、阿川本にあった。戦力は、保有軍備の二乗に比例する。0.7の二乗は0.49だから、これ以下では敵に対して半分の力で戦わざるをえなく、これでは勝ち目がないということのようだ。

 

 この議論は、あまり数値的根拠はないらしい。仮に根拠があったとしても、技術革新で軍備の内容が変わってしまえば、この式自体意味を持たなくなる。たとえば戦艦の時代から航空機の時代に変われば、戦艦を何隻保有しようと、戦力保持には役立たないからだ。

 

 対米英7割論は、「軍人という専門家がそう言っているのだから、間違いないだろう」と当時の外交官は納得し、その上で交渉に臨んだらしい。しかし専門家というものは、とかくブラックボックスのなかで、自分に都合の良い議論を作り上げるので、その論拠をしつこく調べる必要がある。論拠なき主張として、対米英7割論はその好例だろう。

 

(参考)

・中路啓太、「ロンドン狂瀾」、光文社、2016

・阿川弘之、「山本五十六」、新潮文庫、1973