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「早春のスケッチブック」をみる

「早春のスケッチブック」は1983年にテレビ放映された山田太一脚本のドラマである。最近はBS放送が便利で、昔のテレビドラマを放映してくれる。たまたま見たのがこのドラマであり、初見である。

 今から30年以上前に放映された作品にもかかわらず、このドラマは優れた現代性を持っており、胸を突かれた。以下その点を触れてみたい。


 山田太一脚本のテレビドラマとしては、「岸辺のアルバム」や「ふぞろいのリンゴたち」が有名で、「早春のスケッチブック」を知っている人はあまり多くないかもしれない。まずその内容を簡単に紹介する。


 1980年代前半の初冬、場所は横浜郊外で、幸せな4人家族が一戸建てに住んでいる。父親望月省一(河原崎長一郎)は信金に勤め、まじめで家族思いの理想的な父親だ。母親都(岩下志麻)は一家を切り盛りし、あいまに花屋にパート勤めをしている。長男和彦(鶴見辰吾)は県立名門校の3年生で、国立名門校を目標に受験勉強に励んである。長女良子(二階堂千寿)は中学生といった構成だ。

 

 これだけ見ると、なんの問題もない、“理想的な”家族に見えるが、その成り立ちは、やや通常とは異なっている。10年前に、父親省一が良子を、母親都が和彦をつれて結婚したという背景がある。

 

 仲睦まじく暮らすこの家族に、突如として突風が吹いてくる。長男和彦は、ある日予備校で、なぞの美女明美(樋口可南子)に声を掛けられ、世田谷にある古い一軒家に連れていかれる。そこには目を悪くした元写真家の沢田(山崎努)が一人住まいをしており、和彦は明美に沢田を紹介される。受験直前の和彦は、早々に引き上げたいのだが、沢田は彼を挑発する。「いい学校に行って、いい会社に入って、いい暮らしをして一生を送ろうとする、そんなありきたりな生き方に一体何の意味があるのか」。和彦はその無礼な話し方に激怒するが、同時にふと自分の生き方を振り返ることになる。

 

 何回か世田谷の家に沢田を訪れるうちに、和彦は沢田が自分の本当の父親であることを知る。そして和彦は共通一次の試験を欠席し、自ら名門国立大学への進学の道を閉ざす。

 

 もう一人の主役は娘の良子だ。彼女は帰宅途中でスケバン多恵子(荒井玉青)に脅されているところを、長男和彦が土下座して謝ったことで救われるが、彼女はそれが不満で、多恵子と改めてタイマンを張り、けがをして戻ってくる。しかし、そのケンカを通じて多恵子との友情が芽生える。他方で、多恵子は妹思いの和彦に淡い恋心を持ち、和彦との間に少しずつ会話が成り立つようになる。

 写真家の沢田は目が見えなくなったため写真をあきらめたが、すでに重い病を背負っているにもかかわらず、病院に行くことを拒否し、明美を困らせる。沢田のわがままは次第に膨れ上がり、元妻の都に会いに、横浜の望月家を訪問し、一家四人の前で、「こうしたありきたりの生活にどんな意味があるのだ」と捨て台詞を残す。望月省一は怒り狂い、「一生懸命会社と家族のために正直に働いてきたことのどこが悪い」と困惑する。しかし長男和彦も娘の良子も沢田の無頼な生き方に、今までとは違う何かを学び取る。

 

 沢田の病状は重くなり、目が見えなくなる。これを助けるため和彦と良子は世田谷の沢田の家に行って面倒を見始める。沢田は売り出し中のモデルである明美がこれ以上自分にかかわるのはマイナスだと思い、彼女を家から閉め出す。
 
 和彦と良子は学校があるため、なかなか沢田の面倒が見られない。そこで良子はスケバン多恵子に助力を頼み、彼女が沢田の面倒を見るようになる。他人には素直になれない多恵子も沢田との間には会話が成立し、徐々に落ち着きを取り戻す。

 

 そうして早春のある日、皆が見守る中、沢田は忽然としてみまかる。

 

 以上やや長くなったが、「早春のスケッチブック」のあらすじを述べた。次になぜこのドラマが現代性を持つのを論じてみたい。このドラマの特色は、“普通の人”(望月省一)と“はみ出し者”(写真家沢田とスケバン多恵子)を対比させたところにある。ここでの普通の人は、この社会が望ましいと思う人間像をうまく表現している。家族思いで、一生懸命会社のために働き、正直に毎日を生きていく。全く非難の余地はない。これに対して“はみ出し者”は、 “良識人”から見れば、唾棄すべき存在だ。社会秩序を乱し、“普通の人”をバカにし、権威者の言うことに従わない。

 

 しかしこうした“はみ出し者”は社会の存続や発展にとって不可欠な存在だ。たとえばコロンビア大学のサイードは、知識人の社会的役割を、「アウトサイダーであり、・・・現状のかく乱者」であると述べている。これだけではちょっとわかりにくいかもしれないが、サイードは知識人に対比するものとして“専門家”を上げており、彼らは「インサイダーで・・・世論を大勢順応型に誘導し、有識者からなる少数の政権担当者集団にすべてを任せてしまうよう大衆をそそのかす」存在だ。

 つまり社会が持続し、健全な発展を遂げるためには、既存の利害から離れて、異なる視点を持つ知識人の存在が不可欠だというのだ(同様な論旨はマックスウェーバーの「古代ユダヤ教」にもみられる)。

 

 以上は社会科学からの論点だが、最近になって進化生物学や物理学から同様な視点が生まれ始めているのは興味あることだ。物理学の世界では、“非平衡”現象が注目を集めている。そこでは混沌から秩序が生まれる。また進化生物学では、混沌と秩序のはざま(カオスの縁)から進化の源泉である突然変異が生じる。つまりはみ出し者の存在こそが社会進化の源泉なのだ。

 

 以上の論理を踏まえれば、社会からアウトサイダーを排除してしまうことは、社会の存続のために、極めてリスキーであることがわかる。社会がうまく回り、発展していくためには、現状に異議を唱え、皆から疎んじられる存在が必要なのだ。翻って日本の現状をみると、教育者は一生懸命、“よい子”を育て、それ以外の生徒は何となく排除されてしまう。ドラマ「早春のスケッチブック」は、こうした社会のトレンドに対する異議申し立てではないだろうか。

 

野良犬のいない町は死んでいる。

 

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(参考文献)
1)エドワード・サイード、「知識人とは何か」、大橋洋一訳、平凡社、2000年
2)スチュアート・カウフマン、「自己組織化と進化の論理」、米沢富美子監訳、日本経済新聞社、1999年