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ミッドウェー海戦に思ふ

ミッドウェー海戦に思ふ

  2024.02.11

・ミッドウェー海戦は、今から約80年前の1942年6月5日から7日にかけて行われた日米決戦である。この戦闘で日本は完敗し、虎の子の空母4隻とベテランパイロット数百人を失った。これが太平洋戦争の転機となり、日本は敗北への道をたどることになる。

 

・話は現代に戻る。ウクライナ戦、中東の不安定化、台湾海峡をめぐる緊張など、日本が平和を享受してきた”幸運な80年”が過ぎ去さろうとしている。日本は今後どのような対応をすべきか。この機会に、ミッドウェー海戦の失敗原因を振り返ってみるのも悪くはない。

 

・日本側の第一の失敗は、この海戦の目的が単一ではなかったことだ。つまりミッドウェー島の空爆とアメリカ空母の撃沈という2つの目的が併存した。このため、日本空母は、まず空爆用の準備を行い、次いで米空母の発見とともに、目的を転じて、空母撃沈用の魚雷装填を始めた。そのタイミングでアメリカ側の空襲に遭い、準備中の魚雷等が誘爆して、空母が沈没するに至る。もし戦闘目的が単一で明確だったら、このような失敗は生じなかったろう(ニミッツ、p66)。

 

・第二の失敗は、情報戦で負けたことだ。ニミッツ提督の回想録にもあるが(ニミッツ回想録、p75-)、アメリカは日本側の暗号を解読していたため、日本の出方を察知していた。たとえば日本側はアメリカ空母の所在を確かめるため、潜水艦隊をミッドウェー海域に散開させたが(1942年6月1日)、アメリカ側はそれ以前に空母を展開済みで、このネットには引っかからなかった。

 

・第三の失敗は、近代兵器の怖さを日本側が理解していなかったことだ。具体的にはレーダーの存在だ。アメリカ側はレーダーによって日本側の空襲を予知しており、それに対して余裕をもって対処することができた。これに対し、日本はこの武器の開発が遅れ(森、上p154)、米軍機による空襲を予知できず、不意打ちを食らうこととなった。

 

・第四の失敗は、残念ながら日本側の司令官に人を得なかったことだ。司令官の南雲中将は航空戦には疎かった(森、上p204)。そのため司令部は飛行機の専門家である草鹿参謀長と源田航空甲参謀を付けたが、彼らは実戦にはあまり役に立たなかった。肝心の米軍機急襲時には、「南雲司令部は茫然自失の状態・・・源田参謀も途方に暮れていたし、南雲ー草鹿参謀長・・・黙然として立ち尽くすのみ」(森、下p199)。実は山口多聞という切り札が日本側には居た。彼は、米空母発見の報に際して、兵装転換せずに、「直チニ攻撃隊ヲ発進ノ要アリト認ム」と進言するが、南雲司令部に無視される。それでも乗艦の飛竜から攻撃隊を出撃させ、米空母ヨークタウンを大破させるという形で、一矢を報いた。もしも山口多聞にミッドウェー戦の指揮をとらせていれば、結果は違ったかもしれない。ちなみに、アメリカ側はスプルーアンスという戦闘のプロが指揮官だった。

 

・以上のことを日露戦争の時の日本海軍の対応と比べると、驚くほど差がある。第一にリーダーの選択だ。当時の海軍大臣山本権兵衛は、先任にとらわれず、閑職にあった東郷平八郎を抜擢し、日本海海戦を任せた。また日本海軍は新技術の採用に関しても貪欲で、英国から技術供与を断られた電信装置を自ら開発し(36式無線電信機)、これが信濃丸からの通報(「敵艦みゆ」)に役立った(司馬、p16)。

 

・以上簡単にミッドウェー海戦を振り返ってみたが、現代に通じる教訓は多い。難関にぶつかったときに、問題をきちんと分析し、柔軟な対処法を考えたかどうか。リーダー選択に当たり、組織内政治を優先せず、適材適所を貫いたかどうか。また新技術に対する貪欲な好奇心を、組織が持ち続けているかどうか。日本が難しい時代に入った今、考えるべき課題は多い。

 

(参考)

・森史郎、「ミッドウェー海戦」一部、二部、新潮社、2012

・C.W.ニミッツ、E.B.ポッター、「ニミッツの太平洋海戦史」、恒文社、1973

・司馬遼太郎、「坂の上の雲」第8巻、文藝春秋、1999